休日は月に1回、例外的に2回で、無休というところもありました。外出も軍の許可が必要でした。
米軍の捕虜尋問記録にみえるビルマ、ミッチーナーの朝鮮人経営の慰安所の場合、外出は自由で、スポーツやピクニックに参加したとありますが、米軍の取り調べに対して供述しているという点を考慮すべきかもしれません。
一般に戦況の悪化とともに、生活は悲惨の度を加えました。
戦地では常時軍とともに行動させられ、まったく自由のない生活でした。日本軍が東南アジアで敗走しはじめると、慰安所の女性たちは現地に置き去りにされるか、敗走する軍と運命をともにすることになりました。玉砕した人もいれば、かろうじて脱出して、連合軍に保護された人もいます。
1945年(昭和20年)8月15日、日本の降伏で戦争が終わりました。しかし、生き残った慰安婦たちは簡単には帰国できませんでした。この人々の中には自分の置かれた境遇を恥じて、帰国できなかった人も少なくなかったことがすでに知られています。帰国することをあきらめた人々は、異郷に漂い、そこで生涯を終える道を選びました。朝鮮から中国に連れて行かれた慰安婦の人たちの中で中国にとどまった人々が1990年代になってようやく帰国できたという話が知られています。
母国にかえった被害者たちにもやすらぎは訪れませんでした。この人々は傷ついた身体と残酷な過去の記憶をかかえ、苦しい生活を送りました。多くの人が結婚もできず、自分の子供を生むことも考えられませんでした。家族ができても、自分の過去を隠さねばならず、心の中の苦しみを他人に訴えることができないということが、この人々の身体と精神をもっとも痛めつけたことでした。軍の慰安所ですごした数年の経験の苦しみにおとらない苦しみの中に、この人々は戦後の半世紀を生きてきたのです。 |