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 慰安婦とは―女性たちを集める
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 慰安所は、このような当時の派遣軍司令部の判断によって設置されました。設置に当たっては、多くの場合、軍が業者を選定し、依頼をして、日本本国から女性たちを集めさせたようです。業者が依頼を受けて、日本に女性の募集に赴くにあたって、現地の領事館警察署長は国内関係当局に便宜提供を直接求めています。
 

上海総領事館警察署長が長崎水上警察署長に送った依頼文
1937(昭和12)年12月21日 『資料集成』1巻36-38頁

皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件

本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関二於テ考究中ノ処頃日来当館陸軍武官室、憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ

  記
 
領事館
(イ) 営業願出者ニ対スル許否ノ決定
(ロ) 慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
(ハ) 渡航上ニ関スル便宜取計
(ホ)

着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直ニ憲兵隊ニ引継クモノトス
 

憲兵隊

(イ) 領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
(ロ) 営業者並稼業慰安婦女ニ対スル保護取締
 

武官室

(イ) 就業場所及家屋等ノ準備
(ロ) 一般保健並検黴ニ関スル件

 
 昭和13年の初め、日本の各地に赴いた業者は「上海皇軍慰安所」のために3000人の女性を集めると語り、募集してまわりました。各地の警察は無知な婦女子を誘拐するものではないか、皇軍の名誉を傷つけるものではないかと反発しました。それで内務省警保局長はこの年2月23日付けで通達を出し、慰安婦となる者は内地ですでに「醜業婦」である者で、かつ21歳以上でなければならず、渡航のため親権者の承諾をとるべしと定めました。3月4日には陸軍省副官も通牒を出しました。


軍慰安所従業婦募集ニ関スル件 『資料集成』2巻 5-7頁 軍慰安所従業婦募集ニ関スル件 『資料集成』2巻 5-7頁 軍慰安所従業婦募集ニ関スル件 『資料集成』2巻 5-7頁


 ここで満21歳以上としたのは、日本が加入していた「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」で未成年者に売春をさせることが禁じられていたからです。ところが、慰安所の数が急速にふえてきますと、中央の内務省も陸軍省もますますコミットせずにはおられなくなっていきます。1938年11月4日には、内務省警保局の内部で「本日南支派遣軍古荘部隊参謀陸軍航空兵少佐久門有文及陸軍省徴募課長ヨリ南支派遣軍ノ慰安所設置ノ為」「醜業ヲ目的トスル婦女約四百名」を渡航させるように「配意」ありたしとの要請があったので、「極秘ニ取扱フ」、四百名を大阪百名、京都五十名などと各県に割り当て、各県で業者を選定し、女性を募集させてほしいという文書が起草されています。

 日本の国内からの女性の調達がこのように進められたとすると、台湾や朝鮮からの調達はどのように進められたのでしょうか。朱徳蘭女史の研究は、1939年の台湾での事例を明らかにしています。海南島を占領した海軍から台湾の海軍武官に要請がなされ、そこから華南と東南アジアの軍事的経済開発のために設立された国策会社、台湾拓殖株式会社に要請が行われました。この会社が海南島に慰安所のための建物を建設し、業者の選定を行ない、資金の提供を行いました。業者は自分の抱える女性をひきつれて、海南島へ渡っています。業者は日本人で、慰安婦とされた女性たちはすでに「醜業に従事している年齢21歳以上」(朱徳蘭編『台湾慰安婦調査と研究資料集』)の者でした。この場合は、日本本土と同じ基準で募集がなされているようですが、この形がいつも守られたかどうかは、不明です。なお日本政府は1925年に「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」を批准するに当たって、植民地を適用外としています。

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