ここで満21歳以上としたのは、日本が加入していた「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」で未成年者に売春をさせることが禁じられていたからです。ところが、慰安所の数が急速にふえてきますと、中央の内務省も陸軍省もますますコミットせずにはおられなくなっていきます。1938年11月4日には、内務省警保局の内部で「本日南支派遣軍古荘部隊参謀陸軍航空兵少佐久門有文及陸軍省徴募課長ヨリ南支派遣軍ノ慰安所設置ノ為」「醜業ヲ目的トスル婦女約四百名」を渡航させるように「配意」ありたしとの要請があったので、「極秘ニ取扱フ」、四百名を大阪百名、京都五十名などと各県に割り当て、各県で業者を選定し、女性を募集させてほしいという文書が起草されています。
日本の国内からの女性の調達がこのように進められたとすると、台湾や朝鮮からの調達はどのように進められたのでしょうか。朱徳蘭女史の研究は、1939年の台湾での事例を明らかにしています。海南島を占領した海軍から台湾の海軍武官に要請がなされ、そこから華南と東南アジアの軍事的経済開発のために設立された国策会社、台湾拓殖株式会社に要請が行われました。この会社が海南島に慰安所のための建物を建設し、業者の選定を行ない、資金の提供を行いました。業者は自分の抱える女性をひきつれて、海南島へ渡っています。業者は日本人で、慰安婦とされた女性たちはすでに「醜業に従事している年齢21歳以上」(朱徳蘭編『台湾慰安婦調査と研究資料集』)の者でした。この場合は、日本本土と同じ基準で募集がなされているようですが、この形がいつも守られたかどうかは、不明です。なお日本政府は1925年に「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」を批准するに当たって、植民地を適用外としています。
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