同じように南方総軍から朝鮮軍(朝鮮駐屯日本軍)司令部にも朝鮮人女性を慰安婦として派遣するように要請がなされたと考えることができます。米軍の資料によれば、1942年(昭和17年)五月にビルマにおける「慰安サーヴィス」のための女性を募集するために、京城(現在のソウル、以下同じ)の陸軍司令部が業者を選定して打診したのに業者が応じています。最終的にこのとき朝鮮から出発した朝鮮人女性は703名でした。朝鮮軍は業者を選定し、募集を行わせたようです。
京城で料理店を経営していた朝鮮人夫婦が憲兵司令部の打診に応じて、この仕事を引き受け、20人の朝鮮人女性を勧誘した事例が知られています。彼らは両親に「300円から1000円を払って、買い取った」、娘達は彼らの「単独の財産」になったと言っていますが、これは前渡し金で縛ったということでしょう。女性たちの述べたところでは、募集時の年齢は17歳1名、18歳3名、19歳7名、20歳が1名、23歳以上が8名、つまり20人中の12名が21歳未満です。1938年に日本国内での募集にさいして警保局がつけた条件が守られていないことは明らかです。
この女性たちに「慰安婦」をもとめているとはっきり説明することはなされていないようです。女性たちの供述には次のようにあります。
米戦時情報局心理作戦班報告書49号より 『資料集成』5巻、203頁
「この『役務』の性格は明示されなかったが、病院に傷病兵を見舞い、包帯をまいてやり、一般に兵士たちを幸福にしてやることにかかわる仕事だとうけとられた。これらの業者たちがもちいた勧誘の説明は多くの金銭が手に入り、家族の負債を返済する好機だとか、楽な仕事だし、新しい土地シンガポールで新しい生活の見込みがあるなどであった。このような偽りの説明に基づいて、多くの娘たちが海外の仕事に応募し、数百円の前渡し金を受け取った。」 |
これは業者に欺かれたものであり、本人の意志に反して集められた事例にあたります。
上記の資料からすれば、太平洋戦争期の朝鮮、台湾からの慰安婦の調達は、南方軍からの要請を受けた朝鮮軍、台湾軍が主体となって、憲兵が業者を選定し、業者が募集した女性達を、軍用船で送り出したと考えられます。もとよりこの時期も日本からの慰安婦の調達も従来通りの形でひきつづき行われていました。
さらにフィリピンとインドネシアなどでは、地元の女性も慰安婦とされました。
インドネシアでは、倉沢愛子氏の研究によれば、居住地の区長や隣組の組長を通じて募集がおこなわれたようです。占領軍の意を受けた村の当局からの要請という形の中には、本人の意志に反して集められた事例も少なくなかったと指摘されています。
このほかに、インドネシアでは、収容所に入れられていたオランダ人女性を連れ出して慰安所におくりこむことが行われました。その中で純粋に強制的に連行された女性は全体の3分の1から5分の1だといわれています。スマランでのケースは戦犯裁判で裁かれ、1人の日本人将校が処刑されています。
このように都市部や軍の駐屯地につくられた業者が経営する慰安所に送り込まれ、慰安婦とされた人々のほかに、東南アジアでも、前線の部隊が、農村部の女性たちをレイプして、部隊の宿舎に連行し、屋内に一定期間監禁して、レイプをつづけるケースがあったことが確認されていいます。もっともはげしい暴力にさらされたこの被害者たちも慰安婦被害者と考えることができます。フィリピンではとくにこの形態がひろくみられました。