デジタル記念館慰安婦問題とアジア女性基金
 アジア女性基金の償い事業 >各国・地域における事業内容−オランダ

 各国・地域における事業内容−オランダ
戻る次へ
 
対象国・地域 申請受付・実施期間 事業内容
オランダ 1998.7.15〜2001.7.14  1) 医療・福祉分野の財・サービス提供 (2億4500万円規模)
 
【背 景】

 オランダは、サンフランシスコ平和条約を締結し、同条約第14条により日本は賠償を支払うべきではあるが、日本の存立可能な経済を維持するとの観点からすべての賠償請求権及び財産、並びに、戦争によって生じた国及び国民の請求権を放棄しました。捕虜であって苦難をうけた人々にたいする償いとしては、平和条約第16条に基づき、日本が国際赤十字委員会に支払った資金で一定の支払いがなされましたが、民間被抑留者については同条による支払の対象ではなく、国民感情はこれに承服しなかったという事情がありました。そこで、サンフランシスコ平和条約調印に先立って、1951年9月7日と8日にスティッカー蘭外相と吉田 首相との往復書簡により、オランダ政府は平和条約第14条(b)による 請求権の放棄によってオランダ国民の私的請求権が消滅することにはならない旨表明し、これに対し、日本政府は、オランダ国民の私的請求権は最早存在しなくなるものとは考えないが、平和条約の下において連合国国民は、かかる請求権につき満足を得ることはできないであろうということ、しかし日本国政府が自発的に処置することを希望するであろう連合国国民のあるタイプの私的請求権が存在することを表明しました。

 このいわゆる吉田・スティッカー書簡に基づいて、1956年3月13日、「オランダ国民のある種の私的請求権に関する問題の解決に関する」日蘭議定書が結ばれ、日本側は「オランダ国民に与えた苦痛に対する同情と遺憾の意を表明するため」、1000万ドルを「見舞金」として「自発的に提供する」ことになりました。このような経過で、日蘭間の戦後処理は、平和条約によって法的に解決済みであり、更に上述の日蘭議定書において、オランダ政府はいかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことが確認されておりますが、日蘭議定書によってとられた措置にもかかわらず、先の大戦中に被害者が受けた心身にわたる癒しがたい傷は依然として残りました。
 たとえば、1990年、対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対して法的責任を認めて補償するよう主張しました。一人当たり約2万ドルの補償をもとめる運動がはじまりました。JESは慰安婦問題も取りあげました。JESは、償いに直接に責任をとるべきは日本政府であるという立場をとっていました。
 
【基金事業の準備】

 オランダにおけるアジア女性基金の事業の準備は、日本外務省によって基金設置直後からはじめられました。オランダ政府は、先の戦争に係わる賠償及び財産、並びに請求権については、サンフランシスコ平和条約で解決済みであるので、日本側が直接関係者と話し合ってほしいと促しました。そこで、対日道義的債務基金(JES)関係者と話し合いを行いました。(大使の回想はこちら)

 事業内容の決定にあたっては、オランダ政府の要望を念頭におき、すでに話し合いが進んでいる他の国の事業の内容とのバランスを考えて、オランダにおいても医療福祉のプロジェクトを実施するとの方針が立てられたようです。JES関係者との話し合いの中で、オランダ側から個人に対する支払いがもとめられました。長い話し合いを重ねた結果、医療福祉支援を個人に対して実施すること、支出する政府資金の総額を2億5500万円とすることで合意が生まれました。
 上記の事業の実施には、オランダ側で組織の設立が必要とされました。オランダの国内法により、他の団体と共に仕事をし、独立して運営できる法人格と独立した権限を有した組織が必要とされました。ハウザー(G.L.J. Huyser)将軍は、そのような組織、すなわち、オランダ事業実施委員会(PICN)の設立に積極的でした。PICNの初代理事長として、ハウザー将軍は1998年7月15日、PICNとアジア女性基金による覚書(全文はこちら)に署名しました。アジア女性基金を代表して、山口達男副理事長(当時)が署名しました。
 この日、橋本総理はオランダのコック首相にあてて書簡(全文はこちら)を送り、慰安婦 とされた人々に対する日本政府のお詫びと反省を表明しました。 1998年11月、マルガリータ・ハマー=モノ=ド=フロワドヴィーユ氏は、ハウザー将軍の後継者として委員長となり、ハウザー将軍はPICNの名誉顧問となりました。
 
 

戻る次へ

 

Copyright(c) Asian Women's Fund. All rights reserved.