デジタル記念館慰安婦問題とアジア女性基金
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 基金で活動した人々
 

下村満子

前アジア女性基金理事
1961年生。65年朝日新聞社入社。90年『朝日ジャーナル』編集長。94年退社。95年アジア女性基金呼びかけ人、理事(−2006年)。健康事業総合財団理事長。

下村満子氏
 
 

 レストランで私たちが先に行って畳の部屋で待ってたら、来てくれたんです。すごくきれいにおしゃれしてね。・・・にこりともしないし、少しこわばった顔をして、目を伏せて、こちらの顔を見なかったのですね。それでずっと顔を見ないでやり取りしてたんだけど。とにかく、手続の説明や何やかやとやって、お金をお渡しする前に、総理のおわびの手紙を先に読んだんです。総理の手紙を読み始めると、そのころからもう泣き出してたんだけど、理事長の手紙になると、理事長のお手紙の方が長くて、もう少し感情というか気持ちの部分が入っていた。すると、その韓国の元慰安婦の女性は、もう感情を押え切れなくなって、本当に、「ぎゃーっ」と叫ぶような、からだの奥底からしぼり出すような声で泣き続けたんです。号泣と言うんでしょうか。
 で、途中で私も手紙を読み続けられなくなっちゃって、こちらもすごい衝撃で、畳の部屋で和食のテーブルに向かい合ってすわっていたんですけど、途中で私は向こう側に行って、彼女を抱いて、「ごめんなさいね、ごめんなさいね。」って、一緒に泣いてしまいました。私もなぜそう言ったのかわかんないんですけど、彼女を抱きしめて、ただ、ひたすら「ごめんなさい」と泣いて言い続けました。そしたら、彼女がわんわん泣きながら、「あなたには何の罪もないのよ。」って。「遠いところをわざわざ来てくれて、ありがとう。」というような趣旨のことを言って、でもずっと興奮して泣いていて、しばらくお互い抱き合いながらお互いそういう状態でいて・・・
 私は、「でも私はあなたは私に罪がないって言って下さったけど、でも私は日本人としてやはり罪があるんですよ。」と言いました。「日本の国民の一人として、あなたにおわびしなきゃいけないんです。」というような、そういうやりとりがあって。それで少し落ちついてきたんで、また元の席に戻って、残りの文章を読み終わって。そしたら、彼女の顔付きがトゲトゲしいこわい顔が、やさしい顔になっていたんです。つきものが落ちたように、変わっていた。・・・ そして、私の顔をもちゃんと見て、それからポツポツと自分の身の上を話し出したんですよ。
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岡 檀

アジア女性基金業務部長
1959年生。慶応大学文学部フランス文学科卒業。任意団体において国際交流事業等に携わったのち、アジア女性基金設立と同時に入職。05年より業務部長。

岡 檀氏
 
 

 基金に入ることになった経緯を少しお話しますと、子供時代から個人的には戦争の問題に関心がありましたけど、アジア女性基金に入る前はまったく違う分野の仕事に就いていました。…ですが一方で、いつの日かきっと、死ぬまでにというぐらいの長期スパンで考えていたんですけど、戦争と人権にかかわることを仕事として、ライフワークとしてやりたいというようなことを友人たちには話していました。…その話を聞いてくれていた人たちのひとりに、当時外務省の人事課の人がいらして、彼が覚えていていてくれて、「あなたはこういう方面で仕事がしたいと言っていましたよね。政府が基金を立ち上げることになって、働く人を探していますが手を上げてみる気はありますか」という電話をしてきてくれました。
 それが始まりでした。私はもう喜んで「行きます、行きます」と。条件も何も聞かずに行きますと言って、…当時は仕事の内容としてここまで大変というのは予想していなかったですね。  
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