わたしが運営審議委員に就任することになったのは、先に呼びかけ人になることを承諾していた和田春樹さんに誘われたからである。・・・7月12日に外政審議室長だった谷野作太郎さんの「面接」を受けた。私は「長年、韓国民主化運動に連帯する運動をやってきたし、韓国人の書いたものを翻訳・紹介してきた関係がある。韓国の人たちとの基金をめぐる対話の場が作れるのではないかと思う」というような決意を話した。(基金発足後、韓国の人たちと基金をめぐって何度も話し合ったが、一部の人を除いて理解を得ることはできなかった。その理由については、考えてみなければならないことも多い。)
運営審議会委員の名簿が公表されると、知人や未知の人から「辞任してほしい」という手紙が三通、電話が一通あった。基金とは関係のない講演の後、待ち構えていた人たちに基金についての話し合いを求められたこともあった。
そうした中で、「なぜ、基金か」ということについて、自分なりの考えが急速にまとまってきた。@政府がそれまでにない誠意を見せている、A補償法を作ること、裁判で勝利することは不可能に近い、Bハルモニたちが生きているうちにしなければならない、ということであった。Aについては、1965五年の「日韓請求権及び経済協力協定」で一応の解決済みというのが私の考えの前提にあった。
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