デジタル記念館慰安婦問題とアジア女性基金
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 基金で活動した人々
 
大沼保昭

アジア女性基金理事
1946年生。国際法専攻。東京大学法学部助手、助教授、教授。70年代よりサハリン残留朝鮮人の帰国運動に取り組む。95年アジア女性基金呼びかけ人、99年理事。

大沼保昭氏
 
 

 94年10月に、五十嵐官房長官と谷野外政審議室長とそれから有馬さんと私の四人で会って話をしたんですね。このときに私は、議論の最初のところでは、戦後責任問題で包括基金をつくるという案を出したけれども、みんなできればそれがいいと言われました。有馬さんだけは、最初から包括基金案はどうかなって感じだったんですが、三人は、できればそれがいいと考えていた。ただ、いろいろと情勢分析すると難しいということになった。私は当時、田中宏さんの強制連行労働者の運動や内海愛子さんのBC級戦犯の運動も知っていたので、非常につらかったんですが、「やむをえない、まずは慰安婦問題を先行させて、行きましょう、とにかくわれわれの力量では全部を一緒にやることはできない、他の問題は先に考えましょう」と申し上げました。有馬さんは、すぐ「賛成」っておっしゃったんですが、五十嵐さんが、「まあそれしかないかな」とぽつりと言われて、それが印象的でした。
 ちょうどそのころ、与党三党プロジェクトで激しいやり取りが行われ、慰安婦問題ですら、できるかどうかわかんないという状況だっていうことだったもんだから、せめてこれだけでも追求して一点突破するしかないということになったんですね。徐々にそれがかたまって、結局95年6月に、五十嵐さんが官房長官談話を出すわけです。
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横田洋三

アジア女性基金運営審議会委員
1940年生。国際法専攻。1969年国際基督教大学講師、のち教授。95年東京大学教授、2001年退官、中央大学教授。95年よりアジア女性基金運営審議会委員、初代委員長。

横田洋三氏
 
 

 金額を決めて、次に運営審議会が問題にしたのも、総理の手紙なのです。これは最初から出すことになっていましたが、どういう文章にするか、ということが問題でした。しかし、これについては何も諮問が理事会の方からなかったのです。それで運営審議会の方からもう一度これは具申しようということになりました。それで総理の手紙の文案を運営審議会で検討して理事会の方に出すようにと言われたのです。そこで皆さんに相談して、運営審議会では高崎さんの原案をもとに、文案をつくって、出したのです。
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和田春樹

アジア女性基金専務理事
1938年生。歴史学専攻。東京大学社会科学研究所助手、助教授、教授。96年同所長。95年アジア女性基金呼びかけ人、97年運営審議会委員、2000年理事。2005年専務理事。

和田春樹氏
 
 

 それはちょっと説明を要します。韓国語では「お詫び」は「謝過(サガ)」と訳すことになっているので、このさい「お詫び」はふかい意味がこめられているとして、「謝罪(サジェ)」と訳すべきだと申し入れたのですが、これは却下になりました。受け入れられるようになったのは、1998年の金大中大統領の訪日のさいの日韓共同宣言の翻訳のさいです。
 さて運営審議会では、高崎さんの案が運営審議会でまとまって、提出されたってことですね。他方で、私も書いているのです。どういうことで書いているのかわからんのですけど、私の文章として出しているんです。結局のところ、最大のポイントは総理大臣として謝罪する。道義的責任を感じるという文章を必ず入れてほしいということでした。それで結局政府側の文章ができて、平林さんが三人に見せると。横田さんもおいでになったんですよ。・・・横田さんと、有馬さんと私の三人が行って見せられたのですよ。コピーはもちろんもらえない。最後のチェックをしたわけですな。それで結構じゃないんでしょうかっていうことで帰ってきた。そこから、理事長の手紙ということが出てきた。・・・
 理事長も手紙を出そうということになって、それで私が総理の手紙の案として理事長に出したものが、理事長の手紙になったのですよ。どういう検討をしたのか忘れてしまいましたが、理事会では検討したんだろうと思いますね。
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