私は1994年に父が死んだときに日記を見つけました。十分な補償も出さず、謝罪やお詫びの言葉も発さない日本という国に対して、父も母も相当な怒りを抱いていたようです。二人が心底怒りを抱いていたことがあったのです。父が死んだとき、私は自分に言い聞かせました。「何かをしよう。」そしてJES(道義的債務基金)のメンバー、理事の一員となりました。1994年の9月のことだったと思います。そして1998年にPICN(アジア女性基金オランダ事業実施委員会)を立ち上げるまでの間、JESの理事として働いておりました。…
私は後にJESに参加して良かったと思いました。そうでなければ「慰安婦」の方々のために何かをしてあげられることもなかったはずですから。私はこの仕事をできたこと、そして日本人のことを理解できたことを喜びに感じています。…
私は被害者の方々とそしてアジア女性基金のためにこうした仕事をやらせていただいたことをとてもうれしく思っています。なぜなら私はこの活動を通じて自分の両親に対しても何かができたと感じることができたからです。この仕事は私自身、私の心にとっても何か癒しにも似た安堵を与えてくれた気がします。私はもはや日本人を憎んではいないと言うことができます。それは私にとって喜ばしいことです。これも何千人といる被害者の一人の物語です。(全文はこちら) |