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オランダにおける事業終了に関する最終報告

2001(平成13)年7月13日

「オランダ事業実施委員会」評価報告書

 財団法人オランダ事業実施委員会(以下、PICN)は1998年7月15日に設立された。同日、財団法人女性のためのアジア平和国民基金(以下、アジア女性基金)とPICNの間で覚書が交わされ、アジア女性基金側は山口達男副理事長、PICN側は当時の委員長G.L.J.ハウサー元将軍がこれに署名した。署名式は池田維駐オランダ日本大使公邸で行われた。また、この署名式に際し、橋本龍太郎日本首相(当時)よりW.コック・オランダ首相へ、オランダにおいて実施される本事業の意義にも触れつつ、元「従軍慰安婦」らの苦しみに対する心からのお詫びと深い反省の気持ちを表明した総理書簡が送られた。(後日この書簡のコピーが本事業の対象者全員に送付された。)

 オランダ事業実施委員会
  委員会設立当時の構成メンバーは以下の通り:
  G.L.J.ハウサー元将軍  委員長
  M.J.ハマー博士  副委員長(兼書記)/被害者に関する個人情報管理担当者
  R.A.ペーター  会計
  C.E.スフェルクロップ  委員
  Drs C.オッテ  顧問

 在オランダ日本大使館の職員2名(山本氏および松林氏)がアジア女性基金を代表してPICN委員会のオブザーバーとして参加した。両名とも2000年に配置移動になるまで同委員会の全ての会議に出席し、その後は後任の職員がオブザーバーを引き継いだ。

 1998年9月、K.ライクボルスト氏が新しくPICN書記に就任した。
また同年11月、G.L.J.ハウサー元将軍が私事により委員長の座を退いたが、その後も特別顧問として引き続き委員会の活動に関った。

 1998年11月9日の会議で、PICNは以下の人事を新たに決定した:
M.J.ハマー博士 委員長/被害者に関する個人情報管理担当者
R.ウンヘレル 委員
G.L.J.ハウサー元将軍 特別顧問
副委員長は空席、ただし必要な場合はR.A.ペーター氏が副委員長を兼務する。

 R.A.ペーター氏はPICN設立以前の段階で、任務に際する適切な保障を獲得し、また1999年から日本の会計年度に準じた年度末(3月31日)前にPICNの財政状況を確認するよう、会計業務代行会社「Deloitteen Touche」に委託した。
 PICNはハーグ商業会議所に27173399番で登録されている。また、WassenaarのABN AMRO銀行に銀行口座を開設し、ハウサー元将軍、ペーター氏およびハマー氏を署名人と認定した。

事業の目的
PICNは、第二次世界大戦中のある期間に東南アジア各地で占領日本軍の軍人らに慰安所または同等の場所で性的奉仕を強いられた人々のうち当時オランダ国籍を有していた者の、現在の生活状況の改善のためにアジア女性基金がオランダで立ち上げた「生活改善事業」の実施を目的としている。
PICNが行う「生活改善事業」では、こうした被害者らに、医療や福祉分野の財・サービスや物品等提供することで彼等の生活状況の改善を図る。この目的のため、アジア女性基金がPICNに資金を供与し、事業を実現させることによって被害者らの苦しみに対する日本側の償いの気持ちを表明する。

PICNの設立
 事業立ち上げ当初、アジア女性基金とPICNは3年以内(1998年、1999年、2000年度)に事業を実施することで合意した。(日本の天皇皇后両陛下によるオランダ公式訪問が行われ、また日蘭交流400周年でもあった2000年の年末までに、全ての対象者が財・サービスの提供を受けることができた。)
 また、対日道義的債務基金との間で、同基金からPICNへの受給申請者データの移動についても合意した。これは両団体がお互いから完全に独立した状態で運営されるために必要な取り決めだった。
 PICNのように個人情報を保持している団体は、オランダ個人情報登記所(Dutch Chamber of Registration of Personal Data)に登録する法的義務があるため、PICNも登録を行った。
 この事業を受け取ることによって対象者に税法上の納税義務、及びオランダ戦争諸法規に関連する支払いに対して、どのような影響が出るのかそれぞれオランダ財務省、オランダ年金・手当評議会(PUR)に問い合わせたところ、どちらも影響はないとのことだった。

広報活動
 準備段階(PICN設立前の2年以上の期間)において、対日道義的債務基金(元従軍慰安婦のグループとアジア女性基金との間の仲介役として参加)の理事会と、アジア女性基金の代表としての在オランダ日本大使館職員(宮原氏および松林氏)との間で交渉が繰り返され、最終的に上述の「オランダにおける生活改善事業」を立ち上げることで合意した。この交渉期間中、慰安行為を強いられた被害者らのグループとの接触を図るため、対日道義的債務基金の刊行雑誌誌上に広告記事が掲載され、このおかげで多くの被害者が早い段階で、当時同基金の理事であり、またこれらの特殊な被害者グループに関する個人情報管理担当者だったハマー氏と接触を取ることができた。また被害者らはハマー氏に対し早い段階で、アジア女性基金から提供される予定の財・サービスの希望用途等についても特別書面で伝えている(PICNは後日、申請者が希望する物品やサービス等のリストとして、この書面を使用した)。
 実現段階においては、PICN設立時にスフェルクロップ氏が広報関連の実務担当者に任命された。1998年7月には全オランダ大使館で広報が行われ、また、世界各国の刊行物、各種雑誌、ホームページ等にも英語およびオランダ語の広告記事が7ヶ月間掲載された。スフェルクロップ氏は非常に優秀な仕事をし、掲載された全ての広告記事等のリストは松林氏に引き継がれた。これらの広報活動の結果、新しい受給申請が多数PICNに寄せられた。

PICNによる対象者判定
 ハマー氏は被害者に関する個人情報管理担当者として、PICN内に設置された特設私書箱を通じて全ての申請書類を受け取り、最初の選別作業を独りで行った。慰安行為を強制された被害者に該当するとハマー氏が判断した人に対しては、正式申請書/登録書類と共に、PICNが今後その人のケースをどう取り扱っていくことになるかについてを記載した標準書類と、物品やサービス等のリストが併せて発送された。これらの書類が申請者から返送されてくると、ハマー氏はまずそれらの書類から名前など全ての個人情報を消した上で、各書類にコードナンバーを付し、これをPICNのその他の委員および顧問に送付し、物品/サービス等のリストと共に次のPICN会議へ提出した。委員会は基準(当時オランダ国籍を保有していたか、第二次世界大戦中か、強制されたか、占領日本軍によるものか、頻度、被害の質、傷害・病気、場所)に従って各ケースを検証した。この際、PelitaやPUR(オランダ年金・手当評議会)によって既に作成されていた被害者についての報告書が非常に役立った。また既存の報告書がないケースについては、その他の方法―目撃証言、PelitaやPURで認識している軍駐屯地および慰安所の名前、既存資料やその他の情報源―を使って申請内容の信憑性を確認した。このようにして全てのケースを慎重に検証した結果、申請者のうち約28人については対象者とは認められない、との結論に至った。これらの申請者へは検証結果についての特別通知が発送され、対象者と認められなかった旨が伝えられた。
 最終的に対象者と認定されたのは78人で、全員に検証結果についての通知が発送され、対象者と認められた旨が伝えられた。
ハマー氏は、PICNによって承認された物品/サービス等のリストの英語版に署名し、以下の各事項について記載した正式書類と共に在オランダ日本大使館(松林氏、その後香島氏)に送付した。記載の内容は右の通り:コードナンバー、性別、年齢、国名、申請日、対象者と認定された日、承認された物品/サービス等、物品/サービス等の合計額(全対象者について同額とすることで合意されている。)被害の状況、PICNのコメント。

申請締切日の延期
1999年1月、PICNはPelitaのソーシャルワーカーから緊急要請を受けた。彼は、自分のクライアント数人が、第二次世界大戦中に占領日本軍の軍人らから受けた暴力的な性的虐待について、現時点ではまだ口にすることが非常に困難な状態であることを訴えてきた。そして、申請締切日が延期され、今しばらくの時間的余裕が与えられれば、10人から25人の女性が申請できる状態になる可能性がある、と伝えてきた。PICNはこの件についてアジア女性基金と協議した。
1999年3月4日のPICN会議で、山口達男副理事長及び伊勢桃代専務理事兼事務局長出席のもと、申請締切日の延期について検討が行われ、その結果、申請締切日を2000年3月15日まで延期することを決定した。

対象者の居住国
オランダ 54人
イギリス 2人
インドネシア 8人
カナダ 2人
アメリカ合衆国 5人
オーストラリア 6人
インド 1人

橋本龍太郎元日本首相からの手紙
1998年7月15日、アジア女性基金とPICNの間で覚書が交わされ、署名式が行われた。この署名式に際し、橋本龍太郎日本首相(当時)よりW.コック・オランダ首相へ、日本政府の代表として「従軍慰安婦として数多の絶え難い苦しみを経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方に対し、心からのお詫びと反省の気持ちを表明する」総理書簡が送られた。この謝罪の言葉は重要な意義を持つものだった。オランダ首相がこの書簡を受け取ったことを知ったPICNは、この書簡の現物コピーおよび正式翻訳を入手し、対象者全員にこれらのコピーを渡すべきだと考えた。このため、まずオランダ政府に問い合わせたところ、書簡の送り主の同意を得られれば許可できる、との返答だった。1999年3月、ハマー夫妻が日本政府より訪日の招待を受けたため、来日したハマー氏は日本外務省にこの件について問い合わせた。その結果、1999年6月、PICNはオランダ政府からこの書簡のコピーおよび正式翻訳を受け取ることができ、第一次財・サービスの提供に合わせて対象者全員にコピーを発送することができた。ハウサー元将軍が署名式におけるスピーチで述べたように、この反省とお詫びを表明した日本首相からの手紙を受け取ることで、「被害者のこの事業の受け入れに対する抵抗がやや和らげられる」ことになる。外傷後ストレス障害(PTSD)から徐々に回復していくプロセスの中で、被害者は元「敵」からの癒しや心からの言葉、確実な事象、そして実際の行為と態度で表される「二度とこのようなことを起こさない」という言葉を必要としている。ハウサー元将軍は、精神(気持ち)、行為、態度の三要素が和解のプロセスで不可欠であると述べた。多くの被害者が、この反省とお詫びを表明した橋本首相からの手紙を受け取ったことで呼び起こされた深い心の揺れについて、直接または手紙でハマー氏に伝えてきている。財・サービスの提供の第一次分がこの首相からの手紙(精神/気持ち)を伴ってそれぞれの被害者の手元に送られたことは非常に大きな意味を持っており、これらにより「態度」も表明されたといえる。また、PICNに対するアジア女性基金の前向きで協力的な姿勢は同基金の熱意を表すものであり、被害者らの幸せを心から願う誠意と献身の表れ、すなわち「態度」を表明するものであった、とPICNは考える。

*附属文書
X婦人の事例
X婦人の悲劇的なケースへの対応は、アジア女性基金の献身的な態度を顕著に表した例の一つと言える。X婦人が日本人である2人の息子に最後に会ったのは1946年だった。彼女と夫であるX氏(X氏は1946年この2人の男の子を養子とすることを希望した)の結婚生活は子供にも恵まれた幸せなものだったが、日本人の息子2人を手放さなければならなかったX婦人の悲しみと苦痛は決して癒えることはなかった。現在70歳のX婦人は独居で病気がちであり、この2人の息子の消息を案じ非常に苦しんでいる。X婦人はこれまで既に何年もの間、個人探偵を通じて息子たちの行方を探し続けてきた。個人探偵は日本人を片親に持つオランダ人の子供からの依頼で彼らの日本人の父親の捜索に関ったという経験が何件もあり、捜索に成功していた。しかし個人探偵が力を尽くしたにも関らず、プライバシー保護を理由に厚生省が本国送還人リストの公表を拒否したため、X婦人の息子らの捜索は完全に行き詰まってしまった。個人探偵は、行方不明児捜索の鍵はこのリストに隠されていると確信している。この間PICNも、在オランダ日本大使館や在日オランダ大使館を通じて解決方法を探ったが、解決への糸口は得られなかった。このためPICNはアジア女性基金にこの件を知らせた。X婦人は第二次世界大戦中、日本軍の軍人ら―とりわけ一人の将校―から非常に残虐かつ非道な性的暴力を受けており、耐え難い苦しみを背負ってきたため、アジア女性基金が真摯な誠意と熱意を持ってこの件に対応したことは幸いなことだった。PICNは、2人の行方不明児の捜索にあたりアジア女性基金が示した誠意と努力に心から感謝する。しかし、アジア女性基金の助力を得ても、本件は解決に至らなかった。
このため、PICNは日本の美智子皇后陛下に書簡を送った。そして、天皇皇后両陛下のオランダ公式訪問の際に、ハウサー元将軍とハマー氏が皇后陛下と直接言葉を交わす機会に恵まれ、この時の会話の中で皇后陛下より、この件に対し深い悲しみを感じ、皇后陛下自らが日本赤十字社に最優先でこの件について調査をするよう指示したことを伝えられた。これは非常に力付けられる言葉だった。その後、日本赤十字社は数ヶ月かけて捜索調査を行ったが、残念ながら最終的に満足のいく結果を出すことはできなかった。これはX婦人にとって非常につらい結果報告だった。個人探偵は現在も引き続き彼等の捜索を続けている。

実施計画
PICNは1999年3月および2000年3月に各年の活動実施計画をアジア女性基金に提示した。

死亡した対象者
1998年に5人、1999年に1人、2000年に2人の対象者が亡くなられた。彼らに対する事業は法定相続人へ引き継がれた。

貯蓄口座
1999年8月11日、PICN会計担当のR.A.ペーター氏は、より高額の利子を得るため貯蓄口座を開設し、普通口座の資金の一部を貯蓄口座に移動した。
2000年8月7日、ペーター氏はこの貯蓄口座を解約し、この口座にあった資金とこの間の利子を再びPICN普通口座に戻した。

全収入および支出の報告
PICNの全収入および支出については、会計業務を委託したDeloitte en Toucheができる限り早期に作成することになっている会計報告の中で報告される予定。

アジア女性基金による対象者の反応についての記者発表
アジア女性基金は日本の一般国民と日本政府の相互協力の上に成り立っている組織であるため、同基金では活動内容を常に公表することを重要課題としている。このため、PICNはアジア女性基金から、被害者らが本事業をどのような気持ちで捉えているのか、また反省とお詫びを表明した橋本元首相からの手紙を受け取ったことでどのような感情の揺れがあったのか、などについて情報を求められていた。
1999年2月、読売新聞社の特派員がハマー氏同席の元でオランダ国籍の元従軍慰安婦2人にインタビューを行った。このインタビューの中で2人は第二次世界大戦中に受けた苦しみについて率直に語り、また同時に本事業への前向きな理解も示した。
2000年内にはハマー氏からも、橋本元首相からの反省とお詫びを表明する手紙を受け取ったこととこの事業を受け取ったことに対する感動と感謝の気持ちをつづった対象者らからの手紙が幾つか送られてきた。当然こうした手紙の中の個人情報は全てハマー氏により削除されている。

PICNの活動終了後の個人情報ファイルの取り扱い
償い金の最終支給終了後、ハマー氏は全対象者に対し、今後PICNがそれぞれの個人情報ファイルをどのように取り扱うことを希望するか聞いた。(PICNはこの質問をし、各対象者の返答通り実行する法的義務がある。)取り扱い方法として以下の3つの選択肢が上げられた。
a) ファイルを破棄する。
b) ファイルを対象者に返却する。
c) ファイルをオランダ戦争関連文書研究所(Dutch Institute of War Documentation) (NIOD)に寄贈する。

40人の対象者が自分の個人情報ファイルの破棄を望んだ。破棄処理は機械で行い、破棄終了後に対象者にファイルが破棄されたことを報告した。
20人の対象者が自分の個人情報ファイルの返却を望んだ。これらのファイルは書留郵便で返送された。
18人の対象者が自分の個人情報ファイルをNIODへ寄贈することを望んだ。これらのファイルは2001年2月に寄贈される予定であり、寄贈後にそれぞれの対象者に報告がなされる。

結論
PICN設立以降、活動終了日まで、全委員および顧問が意欲的に「生活改善事業」を最良の形で実現させるという任務を果たすべくそれぞれの実務にあたってきた。委員会の熱意は素晴らしいものだった。PICNの委員および顧問、アジア女性基金の代表者、在オランダ日本大使館、日本側のオブザーバーなど各関係者間の関係も全て前向きで良好なものだった。小さな問題は相互間の理解と敬意を持って無理なく解決できた。
「オランダにおける生活改善事業」は成功した。
事業開始と同時に、また事業実施以前からも活発に展開されてきた広報活動のおかげで、世界各地にいた被害者と接触することができ、申請を受けることができた。PICNでは全ての申請を慎重かつ公正に検証し判断した。また全てのケースで、関係する人々への配慮を怠らず、優しさと忍耐を持って取り組んできた。
非常にデリケートな問題を取り扱っているため、PICNはメディアに対して常に沈黙を守り冷静に対応してきた。
被害者に対しては常に正確な情報を提供し、理解と優しさ、忍耐、敬意を持って接してきた。中には当然、他の人より多くの配慮を必要とする対象者もあった。聞き手を必要とする被害者は、個人情報管理担当者を訪れた。ハマー氏はこうした被害者から話を聞くことの重要性を理解した。長い年月心の中に隠し続けてきた秘密を、申請書に記すことで初めて外に明かした、という被害者も数人いた。絶対的な秘密厳守の約束の上に築かれたハマー氏と被害者らとの関係そのものが、ある種の癒しになっていると見られた。これらのやりとり(電話、手紙または直接面会による)は年を追うごとに密度を増しており、PICNの活動終了後も引き続き存続することになるのではないかと思われる。
前述のように、橋本元首相からの反省とお詫びを表明した手紙を受け取ったことは、被害者にとって非常に重要な意味を持っていた。ハマー氏の元には、この手紙を受け取ったことで生じた深い感動と、事業を受け取ったことに対する感謝の気持ちを伝える手紙が、多くの対象者から寄せられた。ある対象者は、「私は日本政府よりもアジア女性基金からの償い金を受け取ることを望みます。それはこのお金が、過去に私の身の上に起こったことに対する心からの謝罪の気持ちをこのお金を通じて表したいという日本の国民からの贈りものだからです。日本政府が補償金を支払うのは、法的な訴訟を起こされたのでやむを得ず支払う、という場合だけです」と言っている。
PICNの事業により、多くの対象者の生活状況がかなり改善された。しかし残念ながら一方で、X婦人(附属文書参照)は未だにつらい状況に置かれている。2人の息子たちについて良い知らせがもたらされ、真の意味で彼女の生活が改善されたとき初めて、PICNはその任務を成功裏に完遂することができたと言うことができるだろう。
PICNの委員および顧問は皆、生活改善事業が対象者らに数多くの良いもの―金銭に換算されるものだけでなく、理解と名誉回復―をもたらしたことを実感しており、これまでの活動を振り返って自らにこの任務が与えられたことに深く感謝している。
PICNはその設定期限(2001年2月)に公式確認を持って正式にその活動を終了する。

ハーグ 2001年1月
オランダ事業実施委員会委員および顧問代表
オランダ事業実施委員会委員長 M.J.ハマー博士
 

 
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